医療法人社団 COME三浦矯正歯科

JR中央線 高円寺駅 南口より徒歩3分

03-3313-1187
  • 平日
    10:00 - 13:00 / 14:30 - 20:00
  • 土日
    10:00 - 13:00 / 14:30 - 18:00

矯正歯科の歩み

発行元クインテッセンス出版株式会社よる当院の名誉顧問 三浦不二夫のインタビュー記事です。

「別冊 Quintessence 矯正YEAR BOOK 2014 より」

三浦不二夫先生に聞く、日本の矯正歯科の歩み

近代矯正学が始まっておよそ110年を迎えようとしている。

めまぐるしく日進月歩の技術革新を遂げている現代矯正において、長年にわたって日本の矯正歯科界に多大な貢献をされてきた三浦不二夫先生をお迎えし、その当時の貴重なお話、また今後の展望をうかがった。

(聞き手:矯正YEARBOOK編集部)

矯正の幕開け

─ 今日はお忙しいところお越しいただき、ありがとうございます。

矯正の歴史から始めていただき、歯科大学の秘話に至るまで、三浦先生ならではのお話をしていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

最初に、寺木定芳先生や榎本美彦先生といった日本にいち早く矯正歯科を導入した先駆者たちのことをお話いただけないでしょうか?

Stomatologist & Dentist

三浦 日本の矯正の歴史を話す前に、国際的な視野からヨーロッパと米国における歯科についてお話ししましょう。
ヨーロッパでは6年かけて医者になった後2年ないし3年かけて、歯科医学を学び口腔病医“Stomatologist”として医療に参加するのです。ところが米国は,ヨーロッパから米国大陸に渡った開拓者が、新しい町を開拓していくわけです。ふと気がつくと、6年プラス2年ないし3年かけたStomatologistは新大陸に来てくれない。開拓者たちはう蝕だらけになっても治す人がいないわけです。そうなるとStomatlogistとして医者を教育するのとは別に、歯を至急治すという必要に迫られて、1840年にメリーランド州のボルチアに歯科大学を創ったのが初めなのです。すなわち、歯科医師“Dentist”が誕生したのは米国なのです。

─ ボルチアがDentistを養成する最初の歯科大学なのですね。

三浦 そうです。その後、ニューヨークやフィラデルフィア、ボストンに歯科大学が創られ、次第に太平洋側にもできてくるわけです。

矯正教育の始まり

─ ボルチアがDentistを養成する最初の歯科大学なのですね。

三浦 ボルチモア大学を初期に卒業した Kingsley(1829-1913)が『Irregularity of the teeth and their treatment』を書いて、これからの歯科医はirregularity of teethも治すべきだと主張しました。その頃日本では高山歯科医学院(東京歯科大の前身)の高山紀齋先生が著書の『保曲新論』のなかでirregularityを“蹉跌”という難しい漢字で訳し、第13章に「蹉跌論」をまとめました(図1)。

※図1a,b
図1a:高山紀齋先生(1850-1933)(参考文献1,p30より引用)
図1b:「保歯新論」(復刻版)の第13章に蹉跌論がある(参考文献2,図3より引用)

─ サテツは“つまづき”という意味が一般的ですが、漢字違いでしたよね。

三浦 そう。当時は凸凹という意味で使っていました。アーチを想定した歯列弓から飛び出した歯を“蹉歯”といい、いつのまにか“乱杭”に変わり,さらに“歯列不正”へと変わっていったのです。
その頃,Kingsleyの後輩のAngleは「歯は噛むためにあるから、歯列不正を治すことは不正な咬合を治すことであり、健全な咀嚼器官にする医療である」と主張し、Ortbodontiaとして臨床歯科の1分科としました。1900年のことです。その翌年には彼はAngle scoolを創設し、矯正の教育を始めました(図2)。

※図2a,b
図2a:Edward H Angle(1855-1930)
図2b:寺木定芳先生(1883-1977)(参考文献1のp190より引用)

OrthodontiaからOrthodonticsへ

─ Angleの考えとしては完全なる咬合を得るということでしょうか?

三浦 はい。重複しますがAngleはmalocclusionをnormal occlusionにすることが強制であるとして矯正歯科学“Orthodontia”と定義したのです。そして、不正咬合を上下顎の第一大臼歯の咬合状態で診断することを提案し、Ⅰ級,Ⅱ級,Ⅲ級の概念が生まれました。
Angleが間好の志を集めて学会を開催したのが1901年でしたから、学会開催数と年号とが一致します。つまり、今年は2014年だから、米国矯正歯科学会(American Association of Orthodontists:以下AAO)の学会数も114回目なのです。Angleが唱えたOrthodontiaは1920年、彼の弟子LisherによってOrthodontics、つまりaをcsに変えて、科学に変えられ、この分野の専門職を、Orthodonticsと称することにしたわけです。

海を渡った日本人たち

─ ところで、Angle schoolというのは歯科学校だったのですか?

三浦 Angleはセントルイス市内のアパートの一室に私塾を開き「Ort・odontiaという新しい歯科の学問を教えるから、関心のある歯科医師は集まれ!」と呼びかけたのです。当初は4人しか集まらなかったのですが、次第に受講者が集まってきました。それを聞きつけて入門した最初の日本人が寺木定芳先生です(図3)。

※図3 寺木定芳(1883-1977)(参考文献1のp188より引用)

ここで寺木先生について少し述べましょう。寺木先生は1904年にボルチモアの歯科大学に入学し、卒業したとき、この新しい学問を知り、1907年にAngle schoolに入ったそうです。寺木先生はもともと仙台藩の裕福な商家の出で、早稲田大を卒業して「米国に行って小説でも書こうかな」と軽い気持ちで米国を訪れたら、歯の方で新しい大学ができたことを耳にしたそうです。当時の日本には,口中医と称した歯と口腔疾患の治療を専門とする医者はいたけれど、殿様のお抱えで治療費が高く、庶民の歯まで及びませんでした。
そんなとき、地元の仙台藩から、歯医者が少なくてどうしようもない、お金を出すから勉強してきてほしいといわれたそうです。彼は矯正も習って1908年に帰国しました。

─ その当時のことを考えると、寺木先生は歯科界のエリートですね。

三浦 そうですね。当時東京歯科医専の校長であった血脇守之助先生は、Angle schoolを出た寺木先生を横浜まで迎えにいって学校で矯正を教えてみないかと口説いたそうです。講師になった寺木先生の講義はAngleの逸話ばかりだったようですが……。Angleは1907年に釘管装置「pin & appliance」(図4)を発表しましたが,わが国ではAngleのものとは似ても似つかない正中離開矯正装置に変身してしまいました(図5)。

東京歯科医専初代矯正科教授に就任した榎本美彦(図6)

─ それから、寺木先生の跡を継いだのが榎本美彦先生ですよね。

三浦 その通りです。榎本先生(旧姓:市橋)は1908年から3年間サンフランシスコの歯科大学で勉学され、卒業して同市で友人と開業し、1914年帰国後,寺木先生の跡を受け継いで、東京歯科大の初代矯正教授になりました。その頃の矯正装置はバンドからプラケット、ワイヤーに至るまですべて白金加金だったので、高価で、皇室とかブルジョア階級など裕福な人々しか治療費を払えなかった状態でした。その当時,医科歯科大で総義歯上下が2円だったのに対し、矯正の治療費は20円だったそうです。いかに治療費が高かったか、おわかりいただけますよね。

─ 10倍は大きいですね。矯正が庶民に普及しなかった理由がそこにもあったわけです。

三浦 Angle schoolで勉強した日本人は、寺木先生をはじめ、数人います。たとえば石井房次郎先生、それから松本圭司先生の父の松本茂暉先生(旧姓:野沢茂)らです。ですから、Angleが他界したとき、世界に先駆けて日本で先生を偲ぶ追悼会が開催されました。これは有名な話です。

戦後初矯正歯科専門診療所を開設した高橋新次郎(図7)

─ 高橋新次郎先生はAngle schoolで矯正を学んだ方ではなかったようですね。

三浦 はい。私の恩師,高橋新次郎先生は1919年日本歯科大を卒業後、ペンシルバニア大学医学部でMershonとJohnsonから矯正を学び、1925年文部省歯科病院に勤務、現東京医科歯科大の初代矯正学教授になられました。先生はラビオ・リンガル矯正法に加えてヨーロッパから機能的顎矯正法も導入された方です。1962年に退職し、東京駅八重洲口近くで矯正専門診療所を開きました。当時は「歯科」以外標榜できなかったので、看板には「高橋矯正」と掲げられず、やむを得ず「高橋矯正研究所」と名を変えて、戦後初の矯正歯科専門の診療所を開設しました。

戦後の制度改革と矯正歯科

─ 戦後の話になりましたが、進駐してきたマッカーサーは日本の民主化を進めるにあたり、さまざまな改革に着手しましたよね。歯科においてはいかがですか?

三浦 マッカーサーは「日本の歯科界は近代化されていない、子どもの口はむし歯だらけ」と、さらに「医科と歯科とは対等な医療なのに歯科は専門学校教育だ。医科と歯科は同等にして6年制の大学教育にしろ」と指示しました。
GHQの医療行政改革担当部門のPHW(Public Health and Welfare Section)で歯科担当のRidgeley大佐が変えたのです。「小児歯科を作れ,口腔衛生がない」と、「歯科衛生士の教育を開始せよ」さらには学校を卒業したら免状をあげるとは何事だ、国家試験制度を設けろ」等々です。
私は戦中に入学し、1947年3月に卒業、第1回の国家試験受験者です。卒業したトタンの4月1日が筆記試験でした。試験は全部記述式で結果発表されたのが6月末でした。それまで歯科診療はできないのですね。「7月1日から三浦は副手として大学で働け」と言われて、矯正の高橋教室に入りました。以来、高橋先生のご指導で矯正を学び、1962年先生の後継ぎとなりました。若僧のくせに重い責任がのしかかり、多事多難の人生が始まった次第です。

矯正治療が保険導入されなかった理由と標榜に至るまで

─ どうして矯正は保険に入らなかったのですか?

三浦 周知のように、1958年12月の国会で国民皆保険制度の法案が審議され、1年の猶予期間を経て1961年に日本の医療は国民皆保険ということで、医療が皆保険となったのです。当時,矯正治療を行う一般歯科開業医は限られていました。矯正は咬合を治して、咀嚼器官をより健康にするのに「あれは美容だ」と。歯医者自身保険から外したので、高橋先生は「教科書には決して美容とは書いていないのに」と残念がったものです。さらに先生は「保険は平均的歯科医療を普遍化しようという発想から生まれたものだから、われわれはさらに上級で良質な歯科医療を国民に提供できる」と呟いていました。

─ でも、その後、矯正は保険に入って、口蓋裂や顎変形症の矯正治療の場合、保険導入されましたよね。あれは三浦先生の方で何か特別な働きかけをされたのですか?

三浦 1975年苫小牧市内で口蓋裂の子どもをもつ母親が、将来を悲観してその児を刺し殺してしまいました。その事件記事とともに、毎日新聞北海道発行所では口蓋裂児の口蓋閉鎖手術だけでは、噛めない、発音もできない、うまくしゃべることもできない、裂手術は保険に入っているけれど、矯正は保険が利かないと報道しました。これがきっかけとなり「言語障害児を持つ親の会全道協議会」が札幌で開かれました。やがてその声が全国に広がって「口蓋裂児を救おう」という運動に発展しました。詳しくは毎日新聞北海道発行所がまとめた『谷間の口蓋裂児─この子らに健保を』に書かれています。
私が日本矯正歯科学会長のとき「矯正学会でも地域医療検討委員会を設置しようではないか」と提案したところ、福原達郎君を委員長とする委員会が認められ、発足しました。それが功を奏してめでたく1982年に口唇口蓋裂の矯正治療保険導入になりました。また、それに引き続き顎変形症も入りました。
矯正歯科の標榜問題も、口唇口蓋裂の保険導入の働きかけと並行して、厚生労働省の保険課長に訴え続けました。「米国では1901年以来,矯正歯科専門医が不正咬合を治療しているが,日本では3/4世紀(=75年)過ぎても歯科は歯科、矯正の標榜は一切できません。非常に残念であり、国際的にも恥ずかしい。世界から笑われますよ」と話したところ、「考えましょう」との嬉しい返事をいただきました。同時に学校歯科医会にも、う蝕ばかりではなく不正咬合も指摘するように働きかけたところ、「それも三浦先生の言う通りにしましょう」ということになった次第です。

日本矯正歯科学会とIOCの誕生

─ 日本でも2020年に国際矯正歯科会議世界大会(International Orthodontic Congress:以下IOC)が開催されますね。

三浦 海外に目を転ずると、1907年、ヨーロッパにいるAngleの生徒たちが集まって、第1回のヨーロッパ矯正歯科会議(European Orthodontic Congress)をロンドンで開き、Angle先生を特別講演者にしました。以後,5年に1回その会議を国際会議として開くことになりましたが、当時の国際情勢でどうしても開けず、第一次世界大戦が終わって世の中が平和になった1926年に第1回IOCがニューヨークで開催されることになったわけです。
寺木先生はこの情報をハーバード大学でインストラクターをしていた藤代直治先生がお嫁さんをもらいに帰国したときに聞いたのです。
早速、寺木先生は矯正に関心のある先生がたを集めて、日本矯正歯科学会を結成し、日本からもこの学会へ1人出そうということで、会議に慶應大学医学部の岡田満教授を出席させました。
寺木先生が提案したこの日本矯正歯科学会は名ばかりで、実は一杯飲む会合のようでした。その後榎本先生が「会則を作って、年次学会を開催し、加えて雑誌発行もすべきだ」と自ら初代会長となって会を運営したわけです。もちろん、先生は学会支部の東京矯正歯科学会会長も兼任しました。当時日本矯正歯科学会には東京支部、大阪支部、札幌支部の3つがありました。戦時中は休会状態でしたが、戦後についてはすでに述べたように、マッカーサーの支配のもと、連合国軍占領下になります。高橋先生は1954年フルブライトの交換教授で、米国を訪問し、国内の大学や研究所を1年間かけて視察し、帰国されました。

地区学会誕生と矯正歯科が医療となるまで

三浦 高橋先生は早速、日本矯正歯科学会会長に推挙されます。そして、東京、近畿東海、中四国、西日本の4地区学会に加えて、北海道にも矯正学会を創設することにしました。
当時、北海道には医科大学はなく、その頃、高橋先生の友人の東大の金森虎男先生が、札幌医大に医学部を創るという意図で招聘されたときでした。「矯正学会を札幌で開いてくれれば、矯正学の普及も図れる」として戦後初の矯正歯科学会が札幌市で開かれることになったのです。
高橋先生から幹事役を命じられた私は青函連絡船に何回乗ったことか……。その結果、1959年7月11日、12日にめでたく日本矯正歯科学会が誕生したのです。その後、東北矯正歯科学会と甲信越矯正歯科学会が地区学会として加わり、結局、日本矯正歯科学会は7つの地区学会で構成されることになったのです。でも、半世紀過ぎた現在では文部科学省の指導でそれぞれ独立した学会となり、運営されています。

歯科大学誕生の秘話

─ 話を戻しますが、三浦先生が卒業されたときは、大学ではなかったですよね?

三浦 私は東京医学歯学専門学校を卒業しました。すでに述べたように、マッカーサーの勧告で専門学校から大学へ昇格したのです。

─ 安倍能戊が大学にするかしないかの諸間機関を作ったという話を聞いたのですが、それについてはいかがですか?

三浦 安倍さんではありません。1945年の終戦時には日本国内には8校の歯科医学専門学校がありました。そのうち2つは女子の歯科専門学校でした。GHQの指示で歯科医学教育新議会が作られ、審議されたわけです。東京歯科医学専門学校(東京歯科大の前身)の奥村鶴吉校長が審議会の委員長になりました。歯科医学は医学と同等に大学へ昇格させて教育しなければいけないというGHQの指示で専門学校教育から大学教育へと変わったのです。

歯科大学の設立と適正数

─ 今では歯科大学ないし医学部が29ありますが、この大学数についてはどのようにお考えですか?

三浦 国民皆保険になったので、歯科医師が足りないことから、歯科大学を新設することになりました。そして1961年に愛知学院大に歯学部が設置されました。2番目に名乗りを上げた神奈川歯科大が1964年にできています。当時は人口50万人以上の都市でないと、付属病院に患者が集まらないという理由で、付属病院は横浜市内にという条件がついたのですが、実際はそのまま横須賀市に留まりました。一方、官学では旧帝国大学内に歯学部をということで、名大分を新潟大に、京大分を広島へ、それに東北大の3つの大学に設置されまいした。陰には池田隼人首相や田中角栄首相あるいは愛知一揆外務大臣の力があったのですかね。1年遅れで九大と北大に歯学部が設置され、私立大学と国立大学の数の上では等しくなりました。鶴見大に医学部が認可されたときには計15校になったのですが、私見ではその数でいいと思うのですが……。
ところが、そのとき私学連合という新たな組織が生まれ、歯学は私学からという声が強くなって矢継ぎ早に岐阜歯科大(現・朝日大学歯学部)、東北歯科大(現・奥羽大学歯学部)、日歯新潟大、など次第に数が増えていったのです。

─ そうすると、先生がおっしゃっているのは鶴見大までで十分だったということでしょうか?

三浦 歯学部卒業生は年間1500人程度が妥当というのが当時の大学設置委員会の腹案でした。

─ ここで止めておけば、歯科医師数も現在のような状態にはならなかったということですかね?

三浦 正直なところ、そうかもしれませんね。

戦後における治療装置の変遷

─ 非常に専門的な話になりますが、矯正治療にはJarabak法、Begg法、Edgewise法など、いわゆる器械派といわれる矯正装置がありますが、その導入の流れについて簡単にご説明いただけますか?

三浦 1959年の先述の戦後第1回の日本矯正歯科学会ではツインワイヤー(双線弧線)装置が最先端の矯正法でしたが、その翌年私がシカゴ大学のDahlberg教授の下で歯科人類学をNIH研究員として勉強したときの米国矯正歯科界は、Angleの真弟子、Tweed法が主流でした。
Tweed法を簡単にいえば、Angleの非抜歯法を抜歯法に代えた治療法です。当時はTweed様様、抜歯様様だったのです。でも彼の方法は、Angleを進展させた矯正法ですから、所詮エッジワイズ、つまり角のワイヤーを用いるので、Angleと同じく強い力を使っていました。それに対し、弱い矯正力であるライトフォースを用いて矯正しようという治療法を確立したのがオーストラリアのBegg法であり、米国のJarabak法だったのです。
私がシカゴ大学にいたとき、ちょうどJarabakが彼のライトフォーステクニックを発表したときでした。先生は大学にも、講習会にも、また自分の診療所へも出入りを許可してくださり、詳しく教えてくださいました。帰国してから早速矯正臨床に適用した次第です。当時、医科歯科はJarabak法、日本歯科では榎木先生がBegg法を用い始めたわけです。何事も10年と申しますが、その通りで、当時の日本の矯正歯科界も、大学では米国並みのレベルに届いたといえましょう。ただ、その間に、それらのテクニックに用いる金属製バンドの為害性にも気づきました。

日本接着歯学の生みの親、増原英一先生との出会い

─ それでボンディングが始まったのですね。

三浦 そうです。1966年でしたか、医科歯科大の歯科材料研究所(現・生体材料工学研究所)の増原英一先生がドイツのFischer教授のところでMMAレジンの触媒である「TBB」を習ってきたのです。矯正用ブラケットを直接エナメル質へ接着できる方法がないかと相談したところ、「“よし”、三浦君は、エナメル質に接着したいんだね。俺は象牙質へ接着するレジンの開発を目的に取り組む。これから共同研究を始めよう」となったのです。そして教室の中川一彦先生の努力によって1970年世界に先駆けてエナメル質の接着材、オルソマイトが生まれました。それに継いで石崎正先生が1975年オルソマイトⅡSを、1981年には茂木正邦先生が現在も使われているスーパーボンドを誕生させたのです。彼らの努力で歯科界は接着時代を迎えたといっても過言ではありません。

細胞を上手に使ってこそ矯正

─ ところで、Ni-Tiワイヤーはどのような経緯があって研究に至ったのでしょうか?

三浦 矯正は歯を動かすことを基本とします。接着の研究から新しい歯の移動法の開発へと進みます。そこでNi-Tiワイヤーの研究を始めました。ある先生は形状記憶合金で歯を治すといっていますが、とんでもありません。形状記憶ではなくて、この合金の超弾性を利用して歯を動かすのです。つまり、矯正専門医はこれを使って、破骨細胞と骨芽細胞を動員しながら上手に歯を移動するのです。サーカスのトラ使いがトラを上手に操るように、矯正医はこれら巨大細胞を上手に操りながら歯を動かす専門職なのです。

─ ゴムメタルもそうですか?

三浦 歯が動いても力が変わらないというのが超弾性なのですから、ゴムメタルとは少々異なります。

─ 可撤式装置のアライナーはどうでしょう?

三浦 繰り返しますが、Angle時代は白金加金の弾性を使う装置が一般的でした。ところが、世界大戦を起こしたヨーロッパではそんな高価な金属は使えません。当然床矯正装置や機能的装置が多用されるようになります。最近では日本でも可撤式の樹脂の弾性を活用したアライナーが生まれております。レーンヂ・オブ・アクション(歯の移動可能な距離)は小さく、したがって利用範囲に限界があるのではないでしょうか。

認定医・専門医制度の展望

─ 認定医とか専門医に関してはいかがですか?

三浦 認定医とか指導医は日本矯正歯科学会の大学教育施設に育成をお願いしているわけです。当然、文部科学省が管轄するわけです。
しかし、専門医は1診療科のみを生業とする臨床家なので、管理は当然、厚生労働省なのです。ですから、日本臨床矯正歯科医会は厚生労働省の所轄でしょう。ところが、文部科学省の指導を受けていると聞きます。日本はどうしてか、米国のNIHのような医療と教育の両者を統括する機関がありません。一本化していないのですよ。日本矯正歯科学会を支える大学人が認定医や専門医を決めるのはおかしいです。
おかしいといえば、同じ医療を行いながら、日本では医科と歯科の格差も大きな問題でしょう。私の母校、東京医科歯科大学の医学部と歯学部は教育や研究は同格ですが。いざ卒業して、医療界に入ってみると歯科と医科が全く違っていて、評価の差が著しい。マッカーサーは教育分野では医科と歯科を同格にしてくれたのに、日本の実社会ではいまだに格差があるのは実に残念です。若い方々にはこれらの不条理を意識していただき、ぜひ改善願いたいものです。

─ 今日は示唆に富むお話をいただきましてありがとうございました

参考文献
1.榊原悠紀田郎,歯記列伝.東京:クインテッセンス出版.1996
2.鈴木祥井,石川富士郎,大野粛英.日本の矯正歯科学の歴史(I).日矯歯誌 2003:62(2):75-96
3.高橋新次郎.新編歯科矯正学.京都:永末書店.1960
4.三浦不二夫.歯科矯正学と共に半世紀-宿老の懺悔と愚見-.日矯歯誌 2003:14(2):30-38

お電話での予約・矯正相談はこちら

03-3313-1187

高円寺駅南口から3分 / 平日は夜8時まで!
土日の診療あり!

WEBからのメール相談はこちら

ご相談フォームはこちら

随時メールからのご相談を承っております